vol.181 ファロン・ヤング

ファロン・ヤング・カントリーへの郷愁

アメリカ音楽の旅
column vol.181
文 = 島田 耕

ナッシュビル・ホンキー・トンクス『レジェンド・コーナー』で
夜な夜な繰りひろげられるカントリー・ライブ。
ペダル・スティール・ギタリストはいまは亡き名手ジョン・ヒューイ。
(Photo by Shimada Tagayasu/2002年11月)

 ファロン・ヤングl懐かしい名前である。ファロン・ヤングが亡くなって今年で15年。いまさらながらこのカントリー歌手が発していた独特の気が偲ばれてならない。「自己顕示欲旺盛な歌手」。ファロンはダンディだった。様子がよかった。加えて「流行りものに気を配っていた」。ハンク・ウイリアムス・カントリーの影響を受けながらも、ときどきの流れに抗って、ファロン・ヤングというカントリー歌手になった、と言ったのはキャピトル・カントリーのボス、ケン・ネルソンだった。

ハンク・ウイリアムス亡き50年代カントリー黄金時代を代表した
カントリー・ヒーロー、ファロン・ヤング

 あまたあるファロンのヒット曲のなかでも「スイート・ドゥリームス」は傑作である。若い世代のカントリー・ファンにはなじみがないかもしれないが、ジェシカ・ラングが演じたパッツイ・クラインの伝記映画『SWEET DREAMSlThe Life And Times Of Patsy Cline』(85年)に1963年のカントリー、ポップ両分野でのヒット以来パッツイの代表曲として認知されているが、実はファロン56年のヒット曲のカバーである「スイート・ドゥリームス」がタイトルに使われ、パッツイの死後40周年にあたる2003年のナタリー・コール、ノーラ・ジョーンズ、リー・アン・ウォーマックといったポップとカントリーの女性歌手によるトリビュート・アルバム『REMEMBERING PATSY CLINE』にも「スイート・ドゥリームス」がアルバムのファイナル・ソングとしてマルティナ・マクブライドのうたで象徴的に収録されていたので、知っている人は少なくないだろう。

 “Going Steady”“I Can't Wait”“All Right”“Live Fast, Love Hard, Die Young(「太く短く」)”、“I Miss You Already”“I've Got Five Dollars And Saturday Night (「5ドルもあれば楽しい土曜の夜」)”、“Sweet Dreams”l古いカントリー・ファンなら誰でも知っている、聞くたびに新鮮な興奮を覚えたこれら名曲をファロンが25歳以前に作ったことは驚きである。ヒット曲は1953年から1989年に至る36年間に89曲。まごうかたなきビッグ・スター「カントリー・レジェンド」である。しかし、いまファロン・ヤングはと問えば、忘却の彼方のカントリー歌手と思われるほど、近頃その名を聞くことも、その作品を耳にすることもなくなっている。けれども細々ながらアメリカのカントリー・シーンではまだファロン・ヤング・ファンがいるようだ。

 ホンキー・トンクと呼ばれるカントリー・クラブのライブ・シーンではレイ・プライス、バック・オーエンズ、マール・ハガードと共にライブ・バンドの必須アイテムとしてうたわれているのを聞いたことがある。テキサスを拠点としたホンキー・トンカー、ジャスティン・トレビノ、ジェイク・フッカー、インサイダーズあたりを聞いていると、かつてジョージ・ストレイトがうたってNo.1ヒットした“If You Ain't Lovin'”(88年)を介したファロン・ヤング・カントリーの回帰現象と同様のムーヴメントがまたあるかもしれないと思わせたりもする。

 ファロンは、ハンク・ウイリアムスの影響下から出発した歌手だ。苦吟節ともいわれた苦渋に満ちた歌声、ときに暗く屈折した人生の悲哀、素朴さと誠実さを基調とした真摯な、しかし暗く淀んだハードなカントリーというハンクのカントリー・イメージは、多分にファーリン・ハスキーやレイ・プライスのような後進の歌手達によって作りあげられたものだったが、同じようなハンク系歌手のなかでもファロン・ヤングばかりはハンクから影響を受けながらも、50年代、音楽の端境期にカントリーで「アメリカの夢」を夢見た20代の若者らしい青春とスピード感が瞬間と結びついた奔流のような勢いを感じさせる、暗さを微塵も感じさせないスタイルでハンクのイメージを払拭し、自分流を作りあげてスターになった。ケン・ネルソンが言っていた目のつけどころの違いだ。そのことが彼の日本での人気を決定づけたことは疑いもない。50年代前半のハンク・フィーバーのなかで独特のスタンスをもったハンク・フォロワーだったことが昨日のことのように思い出される。「ルイジアナ・ヘイライド」でハンクの洗礼を受けながらも、ウェッブ・ピアスのサザン・ヴァレー・ボーイズのバンド歌手としてカントリー・デビューし、影響を受けたという経歴にファロンのヴォーカル・スタイルの鍵がありそうだ。

 同世代のカール・スミス達と50年代黄金時代を牽引し、60年代ナッシュビル・サウンドの時代には“Hello Walls”“Congratulations”“Three Days”をうたってウイリー・ネルソンをカントリー・シーンに送り出したキャピトル時代、63年からのマーキュリー(現ユニヴァーサル)時代には、“Wine Me Up” “Keeping Up With The Joneses”“Leaving, And Sayin' Goodbye”でホンキー・トンク・カントリー復活の中心的役割を果たすなどまさにメジャーな存在だった。少なくとも“It's Four In The Morning”(71年 / No.1ヒット)を頂点とする70年代前半まではカントリー・スター、ファロン・ヤングは存在した。しかし1996年12月9日、肺気腫を病み孤独のなか一人自宅で拳銃自殺を図り64歳の生涯を閉じたとき、その訃報を知らされるまで誰もがファロンのことを忘れていたことに愕然とした。

 195 3 年、“Going Steady”のヒットで「グランド・オール・オープリー」のメンバーを12年間務め、55年にはハリウッド映画に進出して「Hidden Gun」(55年)などに出演、「Daniel Boone」(56年)は日本でもTV放映されたが、「Hidden Gun」で保安官役を演じたことから、ヤング・シェリフと綽名されてバンド名をカントリー・デュプティーズにしたエピソードもいまとなっては懐かしい。

 死して15年、無性にファロン・ヤング・ソングを聞きたい思いが募る。あのホンキー・トンク・カントリーとウイリー・ネルソン・ソングから会得したポップ・カントリーの郷愁に浸りたい衝動に駆られてならない。カントリー音楽の殿堂入りを果たしたのは2000年、彼の死後4年の秋のことだった。自己顕示欲が人一倍強かったといわれるファロンにとって、生前いちばん欲しかったものこそ名誉の殿堂入りだったに違いない。



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