vol.172 1960年代ジャグ・バンド・ミュージック再考①

ー 1960年代ジャグ・バンド・ミュージック再考① ー

AMERICAN MUSIC JOURNEY
アメリカ音楽の旅
column vol.172
文 = 島田 耕

 久しぶりに胸躍る懐かしい音楽に出会った。ジャグ・バンドあるいはブルース、ラグタイム系アコースティック・ミュージックの世界で「生きた伝説」と呼ばれているシンガー、ギタリスト二人の音楽だ。一人はジム・クエスキンJim Kweskin)。
彼の50年、変わらぬジャグ・バンド、フォーク時代を彷彿させるソロ・アルバム『Enjoy Yourself (It's Later Than You Think)』。もう一人は1963年のジム・クエスキン&ジャグ・バンド(Jim Kweskin Jug Band)創設時のメンバー、ジェフ・マルダーGeoff Muldaur)がテキサスのオースティン・ブルース・マフィア達と録音したアルバム『TEXAS SHEIKS』。奇しくも時を同じくして発表されたかつての盟友二人のグッドタイム・ミュージックである。

1920年代ジャグ・バンド・デイズを歌わせたら天下一品、
ジェフ・マルダー来日横浜公演「Thum’ s Up」でのステージ・ショット
(2004/4/10‐Photo by Shimada Tagayasu)
ジム・クエスキン、ジェフ・マルダーと聞くとまず思い出されるのが、1960年代フォーク・リバイバルの渦中、一世を風靡したジム・クエスキン&ジャグ・バンドだ。メンフィス・ジャグ・バンド(The Memphis Jug Band)やガス・キャノン(Gus Cannon)といったジャグ・ミュージックの祖からスタンダード・ジャズ、更にチャック・ベリーやジャニス・ジョプリンまでをもあざやかに歌い演じ分け、迫力に満ちたアレンジの素晴らしさといったらなかった。彼らから与えられた感動は忘れられない。だが、バンドの魅力は何と言っても全編を貫くブルース・スピリッツだった。その精神の美しさ、爽やかな風は他のバンドには真似のできない格好良さがあったが、その要であったのがジェフ・マルダーだった。リーダーのクエスキンを凌駕する賛美を得たジェフの歌は時にメンフィス・ジャグ・バンドを彷彿させ、まさにバンドの要だったが五年を経ずにバンドが解散、フォーク・ブームの衰退と共にメディアから姿を消した。
 その後の二人は、クエスキンは単身アルバム『アメリカ』(1971年)で、ジェフは妻マリアと“ジェフ&マリア・マルダー”(1970年〜1973年)とその後のソロ活動で少数ながらファンや評論家、ミュージシャンを含めた心酔者というべき熱烈なファンに囲まれて現在あるが、二人の近作はそうしたファンを持つ彼らだけに特権的に許された私家版的なアルバム。手にするだけで胸がときめき、聞くにつれクエスキン・ジャグ・バンドと一九六〇年代ジャグ・バンド・ブームへの想いがつのる。

 あの時代、クエスキン・バンドのジャグ・バンド・ミュージックは1920年代ジャグ音楽黄金時代の作品をソフィスティケイトしたものだったが、それはフォーク・ブームを背景にしたジャンルを超えた自由奔放な精神がジャグ・ミュージシャンにも及んでいた証だ。硬派なブルース・ファンのように彼らのジャグをフォーク的に軟化させた別物だったと言いきることは簡単だけれど、クエスキン・バンドの成功は束縛のない、生き生きとした実験的な精神がカレッジ・フォーク・ファンに歓迎されたことは疑いもない。
 ジム・クエスキン&ジャグ・バンドは、アメリカ東海岸のニューヨークと並び称せられたフォーク・タウン、マサチューセッツ州ボストンのフォーク・クラブ「クラブ47」周辺にたむろしていたミュージシャンから成るグループだった。
 1960年代フォーク・リバイバルにおけるジャグ・バンド熱が頂点に達したのは西海岸のサンフランシスコでフォーク・シンガーとしてクラブ・サーキットをしていたボストン出身のクエスキンが帰郷、「クラブ47」のブルーグラス、ブルース、ラグタイム好きミュージシャンを束ねた一九六三年から1967年頃までのおよそ四年間だろう。折しも1963年という年は、モダン・フォーク・トリオ、ルーフトップ・シンガーズがガス・キャノンのジャグ・ナンバー「ウオーク・ライト・イン」でポップ・チャートのNo.1デビューを飾り、ジャグ・バンド熱に拍車をかけた年でもあった。
 当時1963年のフォーク・マガジン「シング・アウト」12月、1964年1月合併号でニューヨークのグリニッジ・ビレッジのメイン・ストリート、マクドゥーガル通りにあったフォーク・ロア・センターのオーナーで、フォーク・ファンから“ビレッジの市長”と呼ばれたイズラエル・ヤングが自身のコラム「フレッツ&フレイルズ」で、また、評論家のポール・ネルソンが加熱するジャグ・バンド・ブームの様子をレポートしている。
 「バーモント州のぺニントン・カレッジから女学生5人組のナンディティーム・ジャグ・バンドがイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドのピート・シーゲルのマネジメントで活動開始。我がフォーク・ロア・センターのスタッフ、ジャック・プレリュトスキイがエリック・カズ、ペギー・ヘイン、ダグ・ポメロイ、リチャード・ブラウスティンとハイドローリック・バナナ・ジャグ・バンドを結成し、他にも名無しのバンドが目白押し、ビレッジのフォーク・クラブ・デビューを狙っているl」。
 ポール・ネルソンは、最近のカーネギー・ホールの「フーテナニー・コンサート」はジャグ・バンドで溢れ、ニューヨークのフォーク・スポット、ナイト・クラブはクエスキン&ジャグ・バンド達に代わるバンドを出演させるためにオーナーは気も狂わんばかりだ、と同誌の合併号で書き立てている。
 彼らのレポートはクエスキン・バンドが東部の学生達に与えた影響力の大きさの一端を如実に物語っているが、ポール・ネルソンは更にクエスキン・バンドがフォーク・シーンに及ぼした影響と功績は、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズNew Lost City Ramblers)がオールド・タイム・ミュージック・リバイバルに果たした功績に匹敵するものだ、とも言っている。
 マイク・シーガーMike Seeger August 15, 1933 – August 7, 2009)、トム・ペイリーTom Paley March 19, 1928 – September 30, 2017)、ジョン・コーエンJohn Cohen)からなるランブラーズはフォーク・ブームの渦中、1920年代、1930年代のオールド・タイム・カントリー・ミュージックをリバイバルさせた伝説のストリング・バンドとしてフォーク、カントリー史の一頁を飾っているが、彼らがバンド結成時の1958年にプリンス・アルバート・ハントのテキサス・ランブラーズをお手本に演奏した“BluesInTheBottle”と、1962年のフォークウエイズ録音““Kentucky Bootlegger”が都会のフォーク・ファンにとって初めて見聞きしたジャグ・ミュージックだったといわれている。

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