ー 1960年代ジャグ・バンド・ミュージック再考② ー
AMERICAN MUSIC JOURNEY
アメリカ音楽の旅
column vol.173
文 = 島田 耕
アメリカ音楽の旅
column vol.173
文 = 島田 耕
ナッシュビルのブルーグラス・クラブ「ステーション・イン」に集まる ブルーグラス、カントリー・ミュージシャンによって結成されたナッシュビル・ジャグ・バンド (『サマー・ライツ ’93』/テネシー州ナッシュビル Photo by Shimada Tagayasu) |
“THE EVEN DOZEN JUG BAND” 1970年代アメリカン・ロック、ブルース、フォーク、ブルーグラスの カリスマとなるミュージシャンを輩出したイーヴン・ダズン・ジャグ・バンド |
1960年代のジャグ・バンド・リバイバルというと必ず引き合いに出されるのがクエスキン・バンドとイーヴン・ダズンだった。クエスキン・バンドのジャグ・バンド黄金時代をリスペクトしたポップな音楽性に対してイーヴン・ダズンはというと、白人のオールド・タイム・ミュージックと黒人のジャグ・ミュージックの間にある共通した音楽スタイルをひとつの音楽として、ニューヨークのような都会で演奏したら面白いのではないかとピート・シーゲルが自身のオールド・タイム・グループを、ステファン・グロスマンのブルース・シンガーズと結びつけ、ブルーグラスを含むオールド・タイムからブルースに至るシーゲル独自のアイデアによるジャグ・ミュージックを展開したいまでというジャム・バンドだった。
シーゲルは自分たちのグループを、当時ブルーグラス・ファンのバイブルといわれたアルバム『MOUNTAIN MUSIC BLUEGRASS STYLE』(Folkways・1960年)をもじった「マウンテン・ミュージック・ジャグ・バンド・スタイル」とか、ジャグとブルーグラスをかけた「ジャグ・グラス」などと半ばおどけて独創的なジャグ・ミュージックを追求したが、ジャグ・バンド・ミュージックがアメリカの民俗音楽とポピュラー音楽の二面性を持っている黒人のキャラクターから生まれた音楽だとする説をとるなら、イーヴン・ダズンのスタイルはジャグ・バンド・ミュージックの本来あるべき姿を具現化しようとしたのかもしれない。このことからも両グループはレパートリーこそブルース、ラグタイム、ミンストレルやメディスン・ショーの流行り歌というように共通点こそあれスタイルは対照的だったことがわかる。バンドを構成したメンバーも対象的だった。クエスキン・バンドはジェフ・マルダー、ブルーノ・ウォルフ、フリッツ・リッチモンド、ボブ・シギンス、ビル・キース、マリア・ダマート(マルダー)といったブルーグラス出身のヒギンスとキースを除く全員がブルース、ジャグ、フォークの古典派だったのに対し、イーヴン・ダズンは同じブルースやフォークやブルーグラスの古典派でもジャンルに頓着しない進取の気性に富んだモダンな音楽性で自由奔放に音楽を展開していく若者集団だった。曰く、スティーヴ・カッツ、ジョン・セバスチャン、ステファン・グロスマン、デビッド・グリスマン、ピート・シーゲル、結成メンバーだったマリア・ダマートなど時に総勢十二名のユダヤ系若者の大所帯。1970年代にロック、ブルース、ブルーグラスで名を成す若き日のミュージシャンが在籍したことで伝説となったバンドだった。しかし彼らの商業的成功はなく、『THE EVENDOZEN JUG BAND』(Elektra・1964年)のアルバム一枚を残して短期間で解散してしまった。マネジャーのピート・シーゲルは言っている。「あまりにも個性的で意的過ぎた」と。
クエスキン・バンドがフォーク・シーンで成功した一因はニュー・ロスト・シティ・ランブラーズに共通する音楽性だろう。オールド・タイム・ミュージック・リバイバルに貢献したランブラーズを彷彿させるクエスキン・バンドの、当時1960年代のフォーク・シーンを覆っていた空虚感のようなものを払拭させる過去の時代、二十年代、三十年代の喜々としたアナーキズムやセンチメンタリズム、ノスタルジアが横溢するリバイバル・サウンドが人々に好感を持って迎えられたことは想像に難くない。そして何より、ジャグ・バンド・ミュージックが、ブルースという音楽が黒人大衆の間で人気のあったダンス音楽と機能して生まれた音楽だということを彼らほど素晴らしい技量と演出で楽しく聞かせてくれたバンドが皆無だったことだ。そうした音楽性に惹かれジャグ・バンド・スタイル経由でロック・レジェンドになったのがジェリー・ガルシアと二ッティー・グリティ・ダート・バンドだった。
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