vol.173 1960年代ジャグ・バンド・ミュージック再考②

ー 1960年代ジャグ・バンド・ミュージック再考② ー

AMERICAN MUSIC JOURNEY
アメリカ音楽の旅
column vol.173
文 = 島田 耕

ナッシュビルのブルーグラス・クラブ「ステーション・イン」に集まる
ブルーグラス、カントリー・ミュージシャンによって結成されたナッシュビル・ジャグ・バンド
(『サマー・ライツ ’93』/テネシー州ナッシュビル Photo by Shimada Tagayasu)
ジム・クエスキンによって1963年、フォーク・ブームにおけるジャグ・バンド・リバイバルの出発点が据えられ、クエスキン・バンドを慕ってボストン・エリア、ケンブリッジのフォーク・クラブ「クラブ47」に集まったブルース、フォーク・ファンらによってジャグ・ミュージック隆盛の基盤が築かれたというのは、もはや常識化されているといってもいいだろう。しかし当時、この常識に真っ向から挑んだのがデイヴ・ヴァン・ロンクス・ラグ・タイム・ジャグ・ストンパーズとイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドだった。

“THE EVEN DOZEN JUG BAND”
1970年代アメリカン・ロック、ブルース、フォーク、ブルーグラスの
カリスマとなるミュージシャンを輩出したイーヴン・ダズン・ジャグ・バンド
ニューヨーク、ボストンといった東海岸の都市にジャグ・バンドが乱立したのはクエスキン・バンドの影響に他ならないが、評論家のポール・ネルソンは「シング・アウト」誌でビレッジ・フォーク・シーンのボス的存在だったデイヴ・ヴァン・ロンクとサム・チャーターズが1958年にリリコード・レコードに録音したアルバムがすべての始まりだったと断言している。僕はいまだそのアルバムを聞いたことがないのだが、チャーターズは1940年代の末からブルースに魅せられ、1951年にはジャグ・ミュージックを録音してミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせている。ヴァン・ロンクにとってはブルースの師ともいえる男だが、ブルース研究家としてのチャーターズ1950年代の白眉が、1954年と1956年の二度にわたってアラバマ、テキサス、テネシーで行なわれたガス・キャノン、メンフィス・ジャグ・バンド、モービル・ストラッグラーズの現地録音だ。その成果は『AMERICAN SKIFFLE BANDS』の名のもとにフォークウェイズで1957年にレコード化され、都会の若者に多大な影響を与えたジャグ・バンド・リバイバルの先鞭をつけたアルバムとして知られている。クエスキン・バンド登場と時を同じくして彼がヴァン・ロンクをリーダーにアーティ・ローズ、ダニー・カルブ、バリー・コーンフェルドと結成したラグタイム・ジャグ・ストンパーズの『DAVE VAN RONK AND THE RAGTIME JUGSTOMPERS』(Mercury)が、ジャグ・ミュージシャンとしての彼らの演奏が聴ける唯一のアルバムだが、そのアルバムはチャーターズが現地録音と、ヴァン・ロンクとの北欧、英国、北アフリカ・ツアーで培った経験を具体化したものだった。アルバムはクエスキン・バンドほどの話題にはならなかったが、ブルース、ジャグの古典から「マック・ザ・ナイフ」のようなポップまでをジャグ化したアルバムはブルース好きなファンの間では座右の盤として聞かれ、ニューヨークのブルース・マフィアといわれた若者達をジャグ・バンド結成へ走らせることになった。そのバンドのひとつがイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドであった。

 
 1960年代のジャグ・バンド・リバイバルというと必ず引き合いに出されるのがクエスキン・バンドとイーヴン・ダズンだった。クエスキン・バンドのジャグ・バンド黄金時代をリスペクトしたポップな音楽性に対してイーヴン・ダズンはというと、白人のオールド・タイム・ミュージックと黒人のジャグ・ミュージックの間にある共通した音楽スタイルをひとつの音楽として、ニューヨークのような都会で演奏したら面白いのではないかとピート・シーゲルが自身のオールド・タイム・グループを、ステファン・グロスマンのブルース・シンガーズと結びつけ、ブルーグラスを含むオールド・タイムからブルースに至るシーゲル独自のアイデアによるジャグ・ミュージックを展開したいまでというジャム・バンドだった。

 シーゲルは自分たちのグループを、当時ブルーグラス・ファンのバイブルといわれたアルバム『MOUNTAIN MUSIC BLUEGRASS STYLE』(Folkways・1960年)をもじった「マウンテン・ミュージック・ジャグ・バンド・スタイル」とか、ジャグとブルーグラスをかけた「ジャグ・グラス」などと半ばおどけて独創的なジャグ・ミュージックを追求したが、ジャグ・バンド・ミュージックがアメリカの民俗音楽とポピュラー音楽の二面性を持っている黒人のキャラクターから生まれた音楽だとする説をとるなら、イーヴン・ダズンのスタイルはジャグ・バンド・ミュージックの本来あるべき姿を具現化しようとしたのかもしれない。このことからも両グループはレパートリーこそブルース、ラグタイム、ミンストレルやメディスン・ショーの流行り歌というように共通点こそあれスタイルは対照的だったことがわかる。バンドを構成したメンバーも対象的だった。クエスキン・バンドはジェフ・マルダー、ブルーノ・ウォルフ、フリッツ・リッチモンド、ボブ・シギンス、ビル・キース、マリア・ダマート(マルダー)といったブルーグラス出身のヒギンスとキースを除く全員がブルース、ジャグ、フォークの古典派だったのに対し、イーヴン・ダズンは同じブルースやフォークやブルーグラスの古典派でもジャンルに頓着しない進取の気性に富んだモダンな音楽性で自由奔放に音楽を展開していく若者集団だった。曰く、スティーヴ・カッツ、ジョン・セバスチャン、ステファン・グロスマン、デビッド・グリスマン、ピート・シーゲル、結成メンバーだったマリア・ダマートなど時に総勢十二名のユダヤ系若者の大所帯。1970年代にロック、ブルース、ブルーグラスで名を成す若き日のミュージシャンが在籍したことで伝説となったバンドだった。しかし彼らの商業的成功はなく、『THE EVENDOZEN JUG BAND』(Elektra・1964年)のアルバム一枚を残して短期間で解散してしまった。マネジャーのピート・シーゲルは言っている。「あまりにも個性的で意的過ぎた」と。

 
 クエスキン・バンドがフォーク・シーンで成功した一因はニュー・ロスト・シティ・ランブラーズに共通する音楽性だろう。オールド・タイム・ミュージック・リバイバルに貢献したランブラーズを彷彿させるクエスキン・バンドの、当時1960年代のフォーク・シーンを覆っていた空虚感のようなものを払拭させる過去の時代、二十年代、三十年代の喜々としたアナーキズムやセンチメンタリズム、ノスタルジアが横溢するリバイバル・サウンドが人々に好感を持って迎えられたことは想像に難くない。そして何より、ジャグ・バンド・ミュージックが、ブルースという音楽が黒人大衆の間で人気のあったダンス音楽と機能して生まれた音楽だということを彼らほど素晴らしい技量と演出で楽しく聞かせてくれたバンドが皆無だったことだ。そうした音楽性に惹かれジャグ・バンド・スタイル経由でロック・レジェンドになったのがジェリー・ガルシアと二ッティー・グリティ・ダート・バンドだった。

 

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