アメリカ音楽の旅
column vol.177
文 = 島田 耕
時代に迎合せず、一過性のものを追いかけず
レイ・プライスのカントリー魂
レイ・プライスのカントリー魂
レイ・プライス日本公演リハーサル会場でのレイ(左)と筆者 (於:東京芝浦スタジオ/1996年4月23日 Photo by Shikata Keishi) |
レイ・プライスの『オースティン・シティ・リミッツ』(1999年)のビデオをもう何回見たことだろう。いまもDVDにコピーした映像を見たばかりだけれど、まるで飽きるということがない。齢70を超えて、翁の風貌どころかステージでの精気みなぎる立ち振る舞いは1970年代全盛時代を彷彿させる。変わり行く時代のレイを聞かせるのではない。心の内にあるものを吐露し、それが共感を呼び起こし、深めている趣がある。「カントリーのフランク・シナトラ」という司会者の紹介も誇張と聞こえない。
どの世代も、自分の青春に重なる人を胸奥に持っている。1950年代から60年代に限れば、当時我々音楽小僧を熱狂させたハンク・ウイリアムス、エルヴィス・プレスリー、エヴァリー・ブラザース、キングストン・トリオ、バック・オーエンズ、ボブ・ディラン、ザ・バーズなどがいるけれど、カントリー・ファンならハンク・ウイリアムスの後継者と喧伝されてデビューしたレイ・プライスは絶対欠かせないそのひとりだ。
1950年代、ハンク・ウイリアムス後の ホンキートンク・カントリーを代表したレイ・プライス |
テキサス州ダラスの「ビッグ・D・ジャンボリー」時代(1949〜1950)からハンクと見紛うホンキートンク・ソングで注目を浴び、ハンク亡き後の混沌としたカントリー界の担い手であった。実際ハンクのバンド、ドリフティング・カウボーイズをバックに歌った「The Road Of No Return」(1952年)が披露されたとき、人々は期待と愛情を込めて「ハンク二世」と呼び、カントリー黄金時代再来の夢をレイに託したものである。
レイ・プライスが「グランド・オール・オープリー」へ登場、本格的にカントリー・デビューしたのは1951年の秋、ハンクの伝手だったといわれる。1951年の春にコロムビア・レコードと契約、デビュー曲「If You're Ever Lonely Darling」が評判を呼び、満を持してのオープリー・デビューであった。またそれはハンクの死を間近にした晩秋のことだった。オープリーがレイと出演契約をしたのはハンクが亡くなった直後の1月。
日本での人気は1956年6月にNo.1ヒット、20週間連続1位を記録した「Crazy Arms」からだが、それ以上にレイの存在を印象付けたのはハンクから生前「Weary Blues」を作ってもらうほどの師弟関係にあったことだ。ハンク神話に洗脳されていた僕のようなカントリー小僧たちは「Crazy Arms」のヒット曲以上にレイの幻のレコード「Weary Blues」を聞きたいがためにFENの「バーンヤード・ジャンボリー」にチャンネルを合わせたものだ。そしてそれを聞けたことがなによりの自慢だった時代が確かにあった。
レイが「殿堂」入りしたのは1996年。109曲目のヒット曲となった1989年の「Love Me Down To Size」から約7年後のことである。偉大なホンキートンク・シンガーでありながら今日にいたるまでもっとも過小評価されてきたカントリー・シンガーがレイだという噂が、一時ナッシュビルの音楽業界で取り沙汰されたことがあるが、遅きに失した「殿堂」入りはそうした噂を裏付けるものだった。しかし、そうした噂は実は1960年代以降の「Make The World Go Away」「Danny Boy」「For The Good Time」といったカントリー・ポップのバラード歌手としての成功が1950年代ホンキートンク時代を遥かに凌ぎ、カントリーを商業的成功に導いたことから起きた実話である。ポップな面ばかりをアピールしてホンキートンク・サイドを意識的に避けてきた筈のナッシュビルの音楽産業がレイのホンキートンクを再評価し、「ニュー・カントリー」のパイオニアとすることで「殿堂」入りの大義を見出したのだから皮肉な話だ。
レイのホンキートンクが再び脚光を浴びたのは、1980年代のリッキー・スキャッグスとジョージ・ストレイトに端を発したネオ・ホンキートンクと呼ばれたカントリーの新伝統派の登場によってだった。そもそもネオ・ホンキートンクの発想は、レッドネック・ロックと呼ばれたプログレッシヴ・カントリーによるカントリー復興運動衰退後の倦怠を、カントリー黄金時代のパッションで乗り切ろうというアイデアから生まれたものだ。リッキーやジョージやランディ・トラビスたちはレイがカントリーの存在意識が疑問視されていたロックンロール時代に、カントリーの過去から採り入れたさまざまな要素でカントリーを蘇らせたのと同じ手法で、即ち、古い音楽に新しい音と言葉を合流させることでカントリーをポップ・カントリーの呪縛から解き放ち、カントリーを日常のなかにあるべき新しい音楽として認識させ、1990年代のニュー・カントリーによる黄金時代にいたる道筋をつけた。そうしたカントリー活性化の鍵となったのがレイ・プライス、バック・オーエンズ、ウェッブ・ピアスだった。
なかでもレイの存在は際立っていた。ロックンロールのカントリー侵攻が頂点に達した1956年から1960年にかけて、「Crazy Arms」「I've Got A New Heartache」「Wasted Words」「My Shoes Keep Walking Back To You」「Curtain In The Window」「City Lights」「Invitation To The Blues」「Heartaches By The Number」「Same Old Me」「Under Your Spell Again」「One More Time」という、現在ホンキートンクの古典として歌われている歌をヒットさせたが、これらヒット曲にはハンクやレフティ・フリゼルが開拓したホンキートンクからボブ・ウイルスのウエスタン・スイングの要素までが詰め込まれていた。「Falling Falling Falling」では、3年後の1959年に「Under Your Spell Again」でレイと共にホンキートンクするバック・オーエンズの「カリフォルニア(ベーカーズフィールド)・サウンド」を予言するカントリーを聞くことができる。
さらに、バディ・エモンズのペダル・スティールを全面に押し出したカントリーと、ブルースの融合という唯一無二のスタイルを披露した「Night Life」(1963)は、ナッシュビル・サウンドをかたくなに拒んだレイの答えと聞こえるというように、レイのカントリーにはそれまでのカントリーには聞かれなかったドラムスを全面に取り入れ、4/4拍子のベースとシャッフルのリズムにシングル・ストリングスによるフィドル、ロックンロール時代の誰もが決して顧みようとしなかったカントリーの音が新しい音と言葉によって生まれ変わってあった。ナッシュビル・サウンドではないカントリーの未来形を提示したカントリーの登場であった。ロックンロール世代の狂騒に与せず、現在に受け継がれた一過性に終わらないレイ・プライス・カントリー、彼のホンキートンク・カントリーとはこういうことだ。
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