vol.182 女性飛行士アメリアの栄光と死の謎

ー 女性飛行士アメリアの栄光と死の謎 ー

AMERICAN MUSIC JOURNEY
アメリカ音楽の旅
vol.182
文 = 島田 耕

『アメリア・エアハート最後の飛行』の作者
レッド・リヴァー・デイブ、1940年代若き日のステージ写真

 史実として信じられ、伝承されてきた数多い歌のなかでも、『アメリア・エアハート最後の飛行』(“Amelia Earhart's Last Flight”)は群を抜いている。彼女の研究事蹟も、数知れない太平洋戦争史家やジャーナリストの研究対象となり、最後のフライトをジャーナリスティックに描いた映画制作もいまだ絶えない。代表的なものに映画専門チャンネルで放映されていたアメリアの夫ジョージ・プットナムが書いた「最後の飛行」を1994年に映画化したダイアン・キートン主演の『ラストフライト』(日本劇場未公開)がある。2007年には天海祐希が日本人としては初めてアメリアを演じて話題になった舞台劇『テイク・フライト』もまだ記憶に新しい。さらに没後70年の2009年にはオスカー女優、ヒラリー・スワンク主演の『アメリア永遠の翼』(監督ミーラー・ナーイル)が制作され、翌2010年日本でも一般公開された。

『アメリア・エアハート最後の飛行』の名唱・名演が忘れられない、
今は亡き英国フォーク・ロックの至宝ロニー・レイン(中央)と
バンド、スリム・チャンス。

 チャールズ・リンドバーグに続いて1932年、女性として初めて操縦桿を握り、大西洋単独横断飛行を成し遂げたことから「ミス・リンディ」と呼ばれ、アメリカではいまも国民的ヒロインの1人であるアメリアの、謎めいた最後にSF的フィクションの世界も加わり、あらたなる批評、審議の対象として伝説の女性飛行士アメリア・エアハートの話題は絶えることがない。


Amelia Earhart's last flight -- Ronnie lane and Slim chance


Greenbriar Boys - Amelia Earhart's Last Flight

 アメリアという女性飛行士の歌を知ったのは、ニューヨークのブルーグラス・グループ、グリーン・ブライア・ボーイズのジョン・ヘラルドの歌からだった。彼らのデビュー・アルバム『THE GREEN BRIAR BOYS』、1963年のことだ。時代はフォーク・ソング・リバイバルの渦中、グリーン・ブライア・ボーイズは古のヒルビリー・ソングをブルーグラス・スタイルで演じ、都会でのブルーグラスの普及に貢献した伝説のグループとして知られているが、まるでレコード・コレクターが手中の玉手箱を開けるように慈しみ紹介した音楽はフォークにも及び、ジム・クエスキンがアルバム『AMERICA』(1971年)でアメリアをうたったのもその表れだ。特にブルーグラスのフォーク・ソングに影響されたモダン化をアップタウン・ブルーグラスと呼ぶようになったのは、グリーン・ブライア・ボーイズの活動を指して作られた言葉だった。オールド・タイム・ミュージックのニュー・ロスト・シティ・ランブラーズに対するヒルビリー・ミュージックのインタープリターといっても過言ではない。





 アメリアの悲劇の歌をはじめ、伝承のフォーク・ソングをデビッド・マケネリィ(David McEnery)という人が編曲したのだとばかり思っていた。ところが、マケネリィがヒルビリー・シンガーのレッド・リヴァー・デイヴ(Red River Dave 1914〜2002)の本名だと知ったのはそれから暫くたってからのことだ。

 デイブは1930年代のテキサスを中心に活躍したヨーデリング・カウボーイの傍ら、ウエスタン・スイングもよくしたヒルビリー歌手だが、あの時代を代表したジーン・オートリーに倣ってハリウッドに進出、B級西部劇でドナルド・リーガンとも共演した人気者だったが、彼が現在あるのはアメリアの悲劇をうたったトピカル・ソング『アメリア・エアハート最後の飛行』あってのことだ。

 「大海原に浮かぶ1艘の船のように大空の小さな点、7月の初め、あの日アメリアは離陸後20分、SOSを発信してヌーナン大尉と共に遥か彼方の夜の青い大海原に墜落、海の藻屑と消えた。大空を飛んだ最初の女性よ、さようなら。やがて誰かが大海原を越えて飛んでいくとしても、私達は決してアメリアと彼女の飛行機エレクトラ号のことを忘れはしない」

 大西洋横断を成し遂げて全米を熱狂させた後もアメリアは大陸横断、1935年にはハワイからカリフォル二アまでの単独飛行にも成功するなどリンドバーグ以降、誰も成し得なかった快挙で歴史を塗り替えた。しかし名声とともにマスコミの中傷や、飛行機にかかる膨大な費用による挫折、さらには協力者との友情以上の関係など、栄光とは裏腹の波乱の人生を送ったアメリアの最後の飛行、世界一周飛行をナビゲーターのフレッド・ヌーナンとともにロッキード・エレクトラで飛び立ったのが1937年5月21日だった。そして7月2日、当時日本の委任統治領だった南洋諸島に隣接したアメリカ領のハウランド島目指して離陸、帰らぬ人になってしまった。

 捜索は日米海軍艦艇が共同で行い、2年後の1939年、正式に遭難による死亡が発表された。遭難当時は日米間の緊張が高まっていたこともあって日本軍による撃墜説、終戦直前にスパイ容疑で処刑されたなどという話が、まことしやかに唱えられたことがあった。しかし、アメリカ政府のエアハート行方不明宣言が事態を収拾させ、歴史の中の出来事と語られ、いつしか日本軍関与説が忘れ去られていた20年後の1960年、サンフランシスコのCBSに届いた一通の目撃情報がエアハートを再び歴史の表舞台に引っ張り出すことになった。日本軍占領下のマリアナ諸島サイパンでの男女2人の白人飛行士の目撃情報である。エレクトラ号が墜落した1937年のことだという。

 CBSのフレッド・ゴーナーは情報をもとに「誰かが嘘をついている」と真相究明に乗り出したことで事は大きくなり日本軍関与説が再燃、アメリアとヌーナンのスパイ容疑は無論、アメリアの赤痢による死亡説、ヌーナンの斬首説、エレクトラ号のアメリカ政府による証拠隠滅と受けとられる焼却、サイパン島での2人の墓の発見。ゴーナーは真実を追い求め、アメリアの飛行関係者、サイパン海域での戦争経験者など彼女の行方不明の謎を少しでも解明できそうなあらゆる人を訪ね、1966年に引き出した結論が、アメリカ政府は彼らが捕虜となったことを知りながら政治的な恥辱を回避したかったことと、充分な軍備が整わない太平洋上での武力衝突を避けたかったがために真実を公表しなかったということだった。

 『アメリア最後の飛行』の作者デイブは晩年、日本のカントリー・ファンからの問いかけに「ジャップに教えることなんかない」と口汚く吐き捨てるように言い放ったという。ゴーナー報告を嵩にかけた暴言にレッド・リヴァー・デイブというヒルビリー歌手に幻滅を憶えたものだ。対してブリティッシュ・フォークのイアン・マシューズは『アメリア・エアハートの物語』で「アメリア、あなたはぼくたちみんなの心の中に生きている“ヒーロー”なんだ。もしゴーナー氏がいうことが半分でも本当のことだったら。あ?、誰が真実を知ろうとしているのだろう。ぼくはこの歌をただみんなに聞いて欲しいだけなんだけど」と、パンドラの箱を開けてしまったゴーナー報告への戸惑いを隠さない。加えてアメリアへの愛と憧憬。この曲に勝る鎮魂歌を知らない。





 アメリアの死は不慮の墜落事故死だったのか、巷間伝えられている日本軍が関与した事故死だったのか。真相はいまだ闇の中と思いたい。

 最後に、この歌の最高のカバーがマシューズとロニー・レイン2人の英国ミュージシャンによって録音されていることを特記しておきたい。


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