AMERICANMUSIC JOURNEY
アメリカ音楽の旅
column vol.217
文 = 島田 耕
「ブルーグラス・メモリー」 ディラーズの乱 1
ブルーグラス・ミュージックは、かつてナッシュビルでもワシントンD・Cでも、ロックやポップスなど他の音楽世界へ強い光彩を放つものはなかった。フラット&スクラッグス、カントリー・ジェントルメン、ニューグラス・リバイバル、カントリー・ガゼット、セルダム・シーンのニューグラスという言葉に代表されたムーヴメントは時代のなかで一応の成果を上げたが、それはあくまでもブルーグラスという音楽のなかでのことだった。ロックやカントリーをも巻き込んだグローバルなムーヴメントというには程遠いものだった。それはあまりにもその性格が、様式が、伝統音楽を露わにした内向的かつ保守的な印象が強すぎたためであったかもしれない。
「私が演ってきたことすべてがブルーグラスだ!」 ビル・モンロー |
ブルーグラスの父ビル・モンローは生前「ブルーグラスはヒューマニズムの音楽だ。カントリーと同じように南東部の人々(カントリー・リスニング・フォークス)の内面心情世界に密着した大衆音楽だ。敢えて外の世界の音楽とブルーグラスを結びつける必要はない。純粋性ゆえにブルーグラスの価値がある。私がこれまで演ってきたことがブルーグラスのすべてだ」とことあるごとに力説してきた。
実際、ブルーグラスは商業音楽としての商業ベースは現在もないといっても過言ではない。ナッシュビルのカントリー音楽産業を結ぶ線からほんの少しずれているのだ。それだけにブルーグラス音楽の活動は、自己をじっくりと見つめてゆくことで、ブルーグラスのシンガー、ミュージシャンは新たな啓示を発見しようとする。その行為はルーツを同じくするカントリー音楽の世界の歴史とはまったく別の方向であるといえる。
しかし、だからといってブルーグラスの流れは決して非現実的なことばかりの繰り返しだったということではない。冒頭に記したグループの進取の気性に富んだ創造的で先駆的な活動は確実にブルーグラスの伝統からの脱却に寄与し、現在のヤンダー・マウンテン・ストリング・バンドのようなジャム・バンドやパンチ・ブラザーズに代表されるジャンルを越境した、かつて誰もが想像もしなかったような非ブルーグラス的ストリング・バンドを登場させる素地になってもいる。しかし実態はカントリーにもポップにもロックにもフォークにも屈せず、ポップな領域への野心などさらさらなく、自己を見つめてひたすらブルーグラスの過去、現在、未来に執着する。新たな音楽的な啓示を発見の日々と思えるジャンルと聞こえる。
ブルーグラスからカントリー・ロックへのディラーズの変身 『麦藁組曲』(1968年)には誰もが驚いた。 |
もしブルーグラスにアメリカン・ミュージックのルーツ音楽としての品位や深みがあるとしたら、それはビル・モンローのブルーグラスへの純粋性や真摯な生き様の所産である。それほどモンローの存在、影響力強いブルーグラス・ミュージックだということだが、いまブルーグラスの過去80年を振り返ると、南東部カントリー・リスニング・フォークスの心象風景に深く根差したモンローのソウルフルなサザン・ミュージック、ブルーグラスに媚びることなくオリジナル・ブルーグラスで唯一つロック、ポップに光彩放ったザ・ディラーズというグループに必ずいきあたる。
ディラーズ? いったいそれは誰で、また何をしたグループなのか。今はそんなブルーグラス・ファンが大半かもしれない。しかし1960年代、70年代の青春世代にとってディラーズはそれこそ伝説的な存在だった。当時の意識的なファンたちの間で熱く聞かれた御三家、カントリー・ジェントルメン、グリーンブライア・ボーイズ、ザ・ディラーズ。わけてもディラーズは飛びきりカルト的人気があった。
決してザ・バーズのように有名にはならなかったし、フラット&スクラッグスの『じゃじゃ馬億万長者』や『パール・パール・パール』のようなヒット曲や、『フォギー・マウンテン・ブレイクダウン』のような誰でも知っている曲も生まなかったけれど、ディラーズこそは1960年代から70年代初めにかけての、ふつふつとたぎるカントリー・ロックによるウエスト・コースト・サウンドのアバンギャルドな感性の頂点に立ったブルーグラス・グループ、唯一の存在であったことが思い出される。
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